「子ざるのかげぼうし」作画雑記
   
 

 浜田廣介のこの童話には3種類の動物が順番に登場する。最初は主人公の子ざる、それからきつね、犬というふうに。

  子ざるが自分の影を自分自身から離そうともがいているところに、きつねが登場して手助けをする。あれこれやってみるけれども影は子ざるから離れない。そこへ犬がやって来て、二匹を大木の下へ案内すると、大木の影のなかでようやく子ざるは自分の影を消すことができるのである。しかし、大木の影から出るとまた影が現れるから、子ざるはそこから離れることができなくなってしまう、という結末。

 今回の仕事の依頼があるまで僕はこの物語を読んだことがなかった。最初の打ち合わせのとき、編集のMさんから、ずいぶんまえにこの童話が出版された時の複製を手渡された。そこに描かれた絵にはほのぼのとしたタッチであるが、ひと昔前のなつかしい雰囲気があった。その絵からはのんびりとした時代の空気と、今の時代に生きる画家とは異なる手仕事の迫力と力強さのようなものが伝わってきた。きっとまだ蒸気機関車が走っていたり、時計が手まきだったりした頃に、活版印刷機で刷られた童話なのだと思った。

  何度か見ているうちに、だんだん僕はこの絵が好きになり、困ったことにこの絵のままでよいではないかと思うようになった。このような絵があるのが、僕が子どもの頃に読んだ絵本のたたずまいであり、浜田廣介の世界なのではないかと思われた。

 そんなわけで、子どもの頃の思い出を思い出すばかりで、筆が一向にすすまなくなった。毎日机の上で渡された複製本をきれいに重ねて置くだけで、手がつけられなかった。さて困ったと思いながら毎日やりすごした。昔出版された童話には、まさにかげぼうしのように当時の画家の絵が寄り添っていた。なんとかこのかげぼうしをとり除かねば自分なりの絵は描けそうにない。そこでまず、絵つけをするまでに文字原稿だけを繰り返し読む作業からはじめた。

 原作を何度も読むうち、だんだんと最初の気負いのようなものがぬけていき、自分の体温で物語を感じるようになっていった。一方で、自分の乏しい児童文学体験の範疇で解釈してよいものかどうか迷いが生じはじめた。しかし、これから図書館へ行って片っ端から絵本を読んでにわか勉強をしたところで、ますます迷うばかりである。そのうちに頭に思い浮かんだ情景を素直に絵にしていこうという方針をたてた。

  そうしているうちに、やがて僕の頭のなかに子ざるが住みついた。酒場へ行き、ぼんやりと酔った頭のなかで、子ざるがぴょんと木から飛び降りて自分の影に出会って驚く光景を思い浮かべることも楽しくなった。自宅のある鎌倉から東京までの電車でも、子ざるがぴょんと木から飛び降りる様子を思い浮かべてスケッチをとったりした。
 

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 あるとき、自宅のアトリエから見える源氏山の油絵を描こうとスケッチをしていたとき、頭のなかでまた、子ざるがぴょんと飛び降りた。それでふと、この絵本の舞台は源氏山にしてはどうかと思ったこともあった。

  しかし実際にはいろいろな山の森の記憶が混ざりあったようなものになった。物語の設定が夏だったこともあり、少年時代、夏休みに祖父に遊びに連れていってもらった九州若松の、小高い山の風景が土台になっているようにも思う。
 

 



  さて、ところでこの絵本を読む子どもが、実際に子ざるからかげぼうしが離れる、という現象が起こりうると思うのか思わないのかという点についてである。この物語を読みすすめるにあたって、

「影が離れるわけがない。バカだなあ子ざるは」

 と思いながら読むのと、

「もしかしてなわきれでしばったり、穴にうずめたりすると離れるかもしれないなあ」

 と思いながら読むのとでは、ずいぶん印象が異なるのではないだろうか。前者は子ざるときつねの行いが喜劇に見えるだろう。後者はどうして影は離れないのだろうか、と科学的な根拠に出会うまで思いつづけるだろう。

  僕は少年時代、後者のほうだった。夜布団で寝ている間、自分の影も天井裏や押し入れの中などで寝ているのかもしれないなあと考えたりした記憶がある。

 また、かげふみという遊びをよくやった。そんなとき、ふと友だちから影をけとばされても痛くないのはどうしてだろう、などと考えたこともあった。今の若い人たちはしらないだろうけれど、「チョコベーッ」と誰かがうなると、子どもの影が街中にびゅっとのびていく不気味な菓子のテレビコマーシャルが流行って、みんな学校帰りにその真似をしていた。その頃は影が生き物であるような錯覚をしていたのかもしれない。

 作者の浜田廣介は、読み手である子どもたちがどう受け取ると考えてこの物語を書いたのであろうか。そのことが作画のあいだ、ずっと気になっていた。

 いずれにしても、影に人格をもたせた方が文中の科白がいきいきとしてくるように思えたので、影にも目鼻を描いてみることにしたが、さてどうだろう。浜田廣介が生きていたら、何と言っただろうか。ながい間大切にされてきた廣介作品の世界を損なうようなことをしてしまうのではないだろうかと心配で仕方がなかった。描きながら何度も、こんどは自分がこの絵本に落とした未熟な影から逃れたくなった。登場する動物たちに、子どもの自然な感情が映ってくれるといいのだが。
   
 

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