はじめての音読暗誦、そして鑑賞のための本作り。
名文が主役になる、美術館スタイルのページ・デザイン。
書の伝統を採り入れる。
真四角の白い本。
・アートディレクター佐藤卓の登場である。
彼は素材の力を十全に引き出すデザイナー。『ニッカピュアモルト』をご存じですか。余計な修辞を一切付け加えずに透明なガラス瓶に、モルトウイスキーを詰めた。削りに削った表現、一見静寂が支配しているが、無垢なモルトであることを鮮烈に主張している。じっと見つめているとボトルが消えてしまい、褐色のモルトだけが波打っている。鮮烈なデビューであった。彼が『にほんごであそぼ 雨ニモマケズ』の本作りに取り組んだ。
・グーテンベルクと我が国の書物について考える。
デザインするとは、テーマと素材の理解、テーマと素材のデザインに他ならない。本書のテーマと素材を深く理解するために、佐藤は我が国の活版印刷の歴史、古文を扱った類書の研究からアプローチする。
グーテンベルクが発明した活版印刷術は、明治になって我が国に本格導入された。それまでの日本の書籍は木版印刷で筆文字を基にして版が作られていた。大小のあった文字が一律になり、字体も統一され、規則正しく隙間なくページに並ぶようになった。例えると、個性的な字体で自由に配列されていた印刷文字が、同じ制服を着せられ、気を付け前へならえと整列されてしまった。一冊の本は、全ページに渡ってほぼ同じ景色の連続となる。そして、文字は「意味」を載せる道具に専念することになっていった。グーテンベルクは、十五世紀に、近現代の社会を予見していた。私達が生きるこの社会は、本の紙面の文字の配列に酷似している。
・では、活版印刷は最も日本的な文学である和歌や俳句をどのように取り込んだか、岩波文庫でみてみよう。
『万葉集』『古今和歌集』『芭蕉俳句集』『北原白秋歌集』などでは、和歌や俳句は一首一行、一句一行でページにびっしりと詰め込まれている。『古今和歌集』では見開きページで多いところで十六首を、『子規句集』では見開きページで二十句収容している。昭和の初期に初版が刊行され、重版されつづけている本である。小さな判型にできるだけ多くの作品を効率よく掲載することが、保存することが、且つ大衆に安価で提供することが、編集の目標だったのでしょう。岩波文庫は作品を鑑賞するための本でなく、音読暗誦のためでもなく、黙読のため本、学問のための資料。一般読者には敬遠したくなる充実ぶりです。今日の眼で見れば、美術館の収蔵庫に通されて所狭しと積み上げられた作品の中で、読んで下さいと言われている感じであります。
・次に中高校生向けの古文の参考書『百人一首』を見てみましょう。
解釈のための本、受験参考書である。精緻を極めた分析。文法、枕詞、面白みのない口語訳。内容はどの本も似たり寄ったり。多くの青少年がこれらの本で、古典の授業で古典を嫌いになった。この歴史が今日まで何十年とつづいている。
・一般向けの古文解説書。
例えば新書版の『百人一首』では、見開きページで一首を扱う。右端に歌を置き、見開きを使って解説。解説者が歌をどう読み解くかが目的の本。興味深い解説を読み進むうちに、解説ばかりに感心して、肝心の「作品」がお留守になってしまうことがある。作品⇔解説者⇔読者という関係、作品と読者がダイレクトに交わらない。間に解説者がいる。解説を中心にした本は、素晴らしいものが多く、私達は大変お世話になってきた。今後もその重要性は変わらない。でも、私達が今、必要としている本は、作品と読者がダイレクトにつながる本。それを、作りたい。作品を音読暗誦することは、作品そのものを自分のものにすること。解説を中心にした本は、本書のテーマである音読暗誦、鑑賞向けの本とはいえない。
一般向けの古文解説本としてもう一種。八十年代に一世を風靡した、豪華な「ビジュアル版日本の古典」といわれる編集スタイル。雑誌『太陽』でもよくあった企画です。ページの端に歌なり句が一行であって、それをイメージしたカラー写真がページの中央を占めている。古典鑑賞を狙った本なのであろう。写真による詩歌の理解、当時は斬新な手法であったが、写真に惹かれてしまって、歌に目も心もゆかないという大きな欠点がある。 次へ→