さて、『にほんごであそぼ 雨ニモマケズ』での佐藤卓の仕事(デザイン)に分け入っていこう。通常、装丁家は、カバー・表紙・扉のデザインを担当するが、本文(ほんもん)まで扱うことは稀である。佐藤卓は本書の本文もデザインした。正確にいえば、本文にこそ、彼が一番考え力を注いだところである。音読暗誦、鑑賞のために、本文を工夫した本。人々に望まれているが、誕生していない未知の本を作るのだ。

・美術館スタイルの本を作る。名文を紙面の中央に置く。
本書の130・131ページの見開きを見てください。
蕪村の句がページの真中に大きな文字であり、解説や作家紹介は脇に小さな文字である。音読暗誦・鑑賞を目的とする本書の主人公は、選ばれた名文である。だから、句が中央に位置し、脇役である解説等が隅に控える。前述のように、参考書や解説書『百人一首』では、歌がページの右端にあり残りのスペースが(ページの大部分が)解説で占められている。佐藤卓は名文と解説の関係を逆転させた。彼は美術館での作品展示方法を本書で採用した。美術館で作品は、壁面の鑑賞者の目の位置(中央)に置かれ、解説のプレートは脇に小さく貼り出されている。 私たちはピカソや雪舟の絵に出合うために美術館に足を運び、解説は鑑賞を補助するものである。美術鑑賞だけでなく、音楽鑑賞、映画鑑賞、演劇鑑賞、どれでも鑑賞する作品が「主」で、解説が「従」である。文学鑑賞ではとかく「主客」が転倒しがちであった。美術館と同じように読者は、まず作品に対峙する。これが音読暗誦・鑑賞の本である本書のスタイルである。

・書の伝統を採り入れる。
34ページ、35ページ、117ページ、121ページ、140ページ、164ページなどで「散らし書き」「分かち書き」を試みた。書家の石川九楊の文章を引用して説明しよう。
“たとえば、行頭行末はそろう、行は次々と前進していくのが、日本を除けば、世界中どこでも共通する書法ですが、和歌では、「散らし書き」「分かち書き」「重ね書き」「返し書き」「見せ消ち」というような和歌の独特の構成が見られます。” 『「書」で解く日本文化』−女手=平仮名の発明、絵画と言葉の融合―毎日新聞社刊より。

“歌(和歌、短歌、俳句、歌詞など)を書く時、日本人は各行頭をなだらかな傾斜で上げ下げしながら書き進むことに慣れている。”『書と文字は面白い』−散らし書き−新潮文庫より。これを「散らし書き」と言い、「分かち書き」は“多くは上句と下句を二分し、両(ふた)つの文字群の間に大きな余白が口を開けた構成法”(『書の宇宙』(12)−洗練の小宇宙・平安古筆−二玄社刊より)である。ではなぜ、そうするのか。“文字を、一枚の絵のように配置すること、そこに中国書史には全く見られない日本の「散らし書き」の美の秘密がある。” 『書と文字は面白い』−散らし書き−新潮文庫より。“絵画を言葉の裏側に貼りつけた和歌は、それゆえ絵画風の構成をみせる。”『書の宇宙』(12)−洗練の小宇宙・平安古筆−二玄社刊より。

伝統的な「分かち書き」や「散らし書き」された書を見ると、独特な美が存在する。書の姿形(書きぶり)や文字の配置、文字が作り出す余白が風景画のように美しい。しかし、活版印刷と共に本の文字は、規則正しく隙間なく組まれるようになり、和歌や俳句は一行の文字の連なりになった。「分かち書き」や「散らし書き」は中国にも西欧にもない日本の書の固有の美学、と石川が言う。本書はその復活を試みた。

・和歌の「後読み」について考える。
高橋睦郎『百人一首 恋する宮廷』中公新書の巻末に添えられた、高橋と水原紫苑(しおん)の対談を引用。

高橋 しかし、読むということは、あくまでも今の立場において、「後読み」することなんだと思うんです。作者の意図という原点に帰るのは、もちろん大切だろうけれども、それだけでは、読みとしては完全ではないのではないか。その歌がつくられた後に出てきた人間が、自分のただいま生きている条件において、どう読むかということが大事だろうと思うんです。
水原 古典が、後から太っていくということですね。
高橋 作品を成長させるのは読者であって、その意味では、作者と読者は、非常に微妙、複雑な関係にあって、読者というのはじつは作者でもあるんですね。
水原 とくに短詩型は完全にそうですね。
高橋 読者が大きくしていく。ただ、大きくなる作品と、ならない作品が……。
水原 小さくなるのもありますね。
高橋 もとの作者および作品に、単に卓(すぐ)れているだけでなく、どれだけ空間があるかということだと思う。

俳句や和歌は短い。でも、だから、たくさんのことを暗示する。言葉の背後に多くのことが感じられるように作られている。しかも、読後に豊かな余情がある。和歌や俳句を詰めて一行で書いてしまったら、暗示や言葉の背後にあるものを聞き取る余裕が、余情を感じる隙間がなくなってしまう。「暗示」や「背後」や「余情」をたたえる空間が欲しい。「分かち書き」や「散らし書き」は豊かな空間を持っている。

和歌や俳句は「後読み」で後から太っていく。後から成長する。読者はじつは作者でもある。「後読み」するには、一行で書いてしまうような過密と規律の状態ではなく、作品の成長を促す時間と空間がほしい。これも「分かち書き」「散らし書き」をする理由に違いない。

和歌は、宮中歌会始でわかるように、ゆっくりとゆったりと時間をかけて歌うように詠まれる。長く伸ばして詠うことで読み手は様々に想いを込め、聞き手はとりどりに想いを馳せる。「分かち書き」や「散らし書き」をする書き手の意図と通じるものがある。   次へ


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