・古典と接してこなかった戦後世代。
戦後世代は昨日より今日、今日より明日と成長神話を宗教のように深く信仰していた。古典や日本的なものは大量生産の新製品の前で、日々影が薄くなっていった。振り向かずにただ前だけを見つめた。戦後世代は、国語の授業で古文と出会った。解釈一辺倒で作品を鑑賞しない古文、文法の古文、受験のための古文。学生にとって古文は堅苦しく面白くなかった。ほとんどの人が古文嫌いになった。六十年代に文学全集のブームがあった。明治から現代文学まで日本文学全集と海外文学全集を当時の若者たちが盛んに読んだ。青年たちは古典全集に目を向けなかった。古文を勉強する人が、親しむ人が戦後のある時期から間違いなくいちじるしく減少し、今日まで減少の一途を辿ってきた。
・低迷する現代文化。
和歌や俳句の美意識は日本人の心の襞にまで浸透している。映画、漫画、テレビドラマ、歌謡曲などの心惹かれる部分、そこに和歌や俳句がイメージされている場合がある。例えばやくざ映画や時代劇、恋愛映画の桜や雪、雨のシーンは、間違いなく和歌の美意識の賜物である。だから、日本人の血が騒ぐ。私たちは熱狂した。黒澤明の『椿三十郎』のイメージ作りには河東碧梧桐「赤い椿白い椿と落ちにけり」が何かしら影響したに違いない。椿がこの映画をしゃれたユーモア溢れるものにしてくれている。椿がないとおそらく武張った映画になってしまう。また、和泉式部の恋歌は日本のラブソングの永遠の源であろう。「ものおもへば沢の蛍もわが身より……」は、森進一の『北の蛍』を生んでいる。
和歌や古文に親しまない世代になるに従い、私たちの文化がやせ細っていったと思えてならないのだ。小津安二郎、溝口健二、黒澤明、手塚治虫、彼らの作品と比較して最近の作品は薄っぺらで心の底に沈澱しない。悲しいけれど私たちの文化は低調である。映画、音楽、テレビ、小説、漫画など、どれも黄金時代はとうに過ぎている。映画が映画を模倣し、漫画が漫画を模倣する時代。テレビは内容のないバラエティばかり。本を読まない若者たち。最近では漫画も読まれなくなってきたという。文化の危機、その傷が一番深いかもしれない。
以下の齋藤孝の文章を読むと、若者たちが古典を敬遠して、本さえも遠ざけてしまった経緯が明確になっていく。『声に出して読みたい日本語』−身体をつくる日本語−最高の文章を型として身につける、より引用。
“モーツァルトのような最高の音楽を幼児や胎児にまで聴かせるのは常識になりつつある。絵においても、最高の名画を子どもの頃に見させるという考えも一般的だ。なぜ言葉に関してはそうはならないのか。小中学校の国語の教科書は、漢字の問題や内容理解の問題から、端的に言って、きわめて幼稚なものとなっている。漱石や鴎外も中学校の教科書から消えることとなった。その代わりに、マンガや現代のポップスが採り入れられたりしている。”教科書に漫画やポップスを採用して、私達は国家的な規模で難しいもの(古典など)を避ける子供たちを作ってしまった。 次へ→