・音読暗誦が日本を救う。
この章は、齋藤孝の最重要テーマなので、彼の著作の引用で構成する。 “小学校の授業においても、暗誦や朗誦の比重は低くなってきているように思われる。詩の授業を参観しても、その詩を声に出して朗読したり暗誦したりすることはあまりおこなわれず、詩の解釈に時間が割かれることが多い。詩は、朗誦したり暗誦したりすることにこそ魅力がある。意味を優先させるあまりに、小中学校の国語の教科書には簡単なものしか載せなくなってきている。日本語を体得するという観点からすると、子どもの頃に名文と出会い、それを覚え、身体に染み込ませることは、その後の人生に莫大なプラスの効果を与える。意味を解釈したとしても、暗誦できていないとすれば、その詩や名文の威力は半減してしまう。文章の意味はすぐにわからなくてもいい。長い人生のプロセスのなかで、ふと意味のわかる瞬間が訪れればいい。こうしたゆったりとした構えが、文化としての日本語を豊かにする。” 『声に出して読みたい日本語』−身体をつくる日本語−暗誦・朗誦文化の衰退、より引用。

“暗誦文化は、型の文化である。型の文化は、強力な教育力を持っている。一度身につけてしまえば、生涯を支える力となる。日本語の感性を養うという観点から見れば、暗誦に優るものはない。最高のものを自分の身の内に染み込ませることによって、日本語の善し悪しが感覚としてわかるようになる。モーツァルトを聴くことで、音楽の質を感じとる感性が養われるように、最高級の日本語にはじめから出会う必要がある。”同じく、最高の文章を型として身につける、より引用。

“現代日本ほど、暗誦文化をないがしろにしている国は稀なのではなかろうか。イギリスではシェイクスピアやバイロンが、フランスではラシーヌなどが、学校教育でも暗誦され、国民の共通の文化となっている。アジアや南アメリカ、アフリカといったところでも、口承文化が色濃く残っている。”同じく、暗誦・朗誦文化の衰退、より引用。
“最高のものを型として反復練習し、自分の技として身につける。このことは、教育の基本である。”同じく、子どもは言葉のリズムを楽しむ、より引用。

・暗誦と鑑賞
“名文を覚えておくと、同じ風景でも厚みを持って感じられる。 夕日を見た瞬間、ランボーの「また見つかった」を暗誦できれば、自分が夕日を見ている経験に、ランボーの人類史上に残る感性が重なり、風景の見え方が違ってくる。(中略)川の流れを見ていても、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして」が重なってくれば、ただの水の流れが無常観の象徴に思えてくる。家でマッチを擦る時だって、(プレヴェールの、引用者注)『夜のパリ』が心に浮かべば、何でもないことに奥行きが出てくる。彩りが付くといってもいいですね。月なんかも、ただ見れば味もそっけもないけど、西行の月を詠った歌を知っていれば、月を見ている自分の心が額に入ったような感じで美しく作品化されます。”齋藤孝『ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室』−名文が感情を豊かにする−集英社刊より。

齋藤孝は言う。子供たちに何も説明を加えずに、棒を呑みこむように音読暗誦しろとは言いません。簡略でいて的確な、イメージが膨らむ解説をしてから音読暗誦をさせます。作品は身体に入り、年とともに自分のなかで成長していく。和歌や句の場合、花が咲いたとき霧に包まれたとき希望に満ちたとき、様々なときに、口について出て人生を演出する。齋藤は、これが鑑賞であると、言う。本で読んだ、または授業で教えられた名文・名句の解説・解釈は一度は納得するが、ほとんどの場合忘れてしまう。鑑賞とは作品と個人との対話である。音読暗誦して、一生かけて名文を鑑賞したいものである。  次へ


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